ギャラクシー・カルガモにオデッセイ号は狭すぎる
マリオオデッセイおもしれ~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
あ~~~~~~おもしれ~~~~な~~~~時間を忘れていくらでも遊べるなあ~~~~~~~~~~
あ~~~
あ~
ァ~
・・・
・・・
虚無………不安……孤独…
うわああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!
スーパーマリオオデッセイは、スーパーマリオギャラクシーではありませんでした。オデッセイだけじゃない。3Dランドも。ゼルダBotWも。NewマリオUもルイージUもマリオカート8もギャラクシー2も。
【当記事は、「スーパーマリオギャラクシー」ないし「スーパーマリオギャラクシー」のストーリーの大筋の把握を前提としていますが、遊んでなくても読めます】
【「スーパーマリオオデッセイ」にいちゃもんつけるような文面ですが、オデッセイはマジモンの神ゲーです。世界観もグラもすごいし、どこをどう探索しても絶対に報酬があるし、アクションも絶妙な難易度と達成感があるしで、マジで面白いので買ってください。ちなみに本作における「帽子」の役割は結構いろいろ考えたので後日記事にするかもしれないです。マジでよく出来てるぞこのゲーム。】
スーパーマリオギャラクシーの幻影を追い求めて、任天堂の3Dアクションを買い続けています。幻想的なオーケストラが流れて、でっかい天文台の中を飛び回って、ひとつひとつがバッキバキに個性たっぷりなステージを次々に踏破していくあのゲームは、僕にとって特別なものでした。あれが発売されたのは2007年。その頃の僕は小学校低学年、マリオギャラクシーは人生で初めての3Dアクションゲームだったのです。子ガモが生まれて始めてみた生き物を母親だと認識するように、僕は生まれて初めて遊んだスーパーマリオギャラクシーこそが3Dアクションゲームの完成形だと思っています。ギャラクシー・カルガモとなってしまった僕は、あらゆるゲームをスーパーマリオギャラクシーと比較することしかできません。
しかし、現実は非情。一度遊んでしまったゲームは、もう二度と、「初めて遊ぶ楽しさ」を僕に提供してはくれないのです。
それからというもの、僕はあらゆるゲームにスーパーマリオギャラクシーの面影を求めるようになりました。でも。スーパーマリオギャラクシーを除く全てのゲームは、決してスーパーマリオギャラクシーではなかった*1のです。当たり前ですが。
何がスーパーマリオギャラクシーをスーパーマリオギャラクシーたらしめるかと言えば、「冒険なのに、帰る場所がある」という点なんです。「ほうき星の天文台」。すんげえ穏やかなBGMの下で、でっかい宇宙を漂う、屋根のない幻想的な建造物の中を歩き回っているだけでなんとなく落ち着きます。どんなステージ(ギャラクシー)をクリアしても、必ずここに帰ってこれる。それは僕に「帰る場所があるんだ」という強烈な安心感を与えてくれました。というか、床がないステージなのに落ちたらシャボン玉に入って復帰できますからね。聖地か?ここは -𝑺𝑨𝑵𝑪𝑻𝑼𝑨𝑹𝒀-
しかもこのほうき星の天文台、基本的に「マリオ以外の人間がいない」んですよ。考えてみてください。自分の部屋に知らんやついっぱいいて落ち着けます?ここが本質的に、天文台が「ステージ選択の拠点」として他のゲームと大いに違う点だと思います。星船マリオやハイカラシティ/スクエアはあくまで「職場のオフィス」なのに対し、ほうき星の天文台は「自分の部屋」なんですよね。自分だけの空間で、リラックスしてステージに向かう準備ができるんです。
スーパーマリオギャラクシーのゲームデザインの根っこには「安心感」があるんだと思います。すべてのステージが天文台からアクセスできることも、球形の地形も、「どこに行っても必ず戻ってこれる」という気持ちにさせてくれました。Wiiというハード自体が万人受けすることを目的としていましたから、Wiiのキラーとなるべき本作が、普段ゲームを遊ばないプレーヤーにリーチすることを目的としているのは必然かもしれませんが。
一方、スーパーマリオオデッセイは「驚きと不安」がテーマです。*2そもそも冒険のスタート地点の「帽子の国」自体がクッパの船から振り落とされた先の落下地点。マリオとは縁もゆかりもない地です。さらに次の「滝の国」で拾った船を修理してオデッセイ号と名付け次の国へレッツゴー、そこでパワームーンを集めてさらにその次へ…と繰り返していきます。
怖い。心の支えが、縋れる点が一個もない。あらゆる国で、あらゆる街でマリオは「来訪者」以外の何者でもありません。しかも拠点になるオデッセイ号も、中にはドレッサーと椅子一個しか無いんです。というか…そもそも…一人になりたい時どうすればいいの!?ずっとキャッピーいるじゃん!!
もちろん先に述べたとおりこのゲーム自体がそういった不安感を狙って醸しているのはわかります(し、旅の面白さは不安感に起因するところがあると思います)が、なにせ僕はギャラクシー・カルガモなので、3Dアクションゲームに安心感を求めてしまうんですよね。
さらにマリオオデッセイは、「自我の本質」も的確に突いてきます。まずはこちらをご覧ください。
「カエルをキャプチャーしたマリオ」です。(本作では、マリオが敵キャラなどに帽子を投げつけることによってそのキャラに乗り移ることができます。この間マリオ自身の身体は消滅します)
そうですね、マリオの帽子が「マリオ」を表すアイコンになっているわけです。
次にこちらをご覧ください。
もちろんマリオですね。……あれ?ちょっと待ってください。
帽子がマリオを表しているなら、帽子の下の身体は、何…?
あ、そうか。マリオはキャプチャーするときに、自分の自我をその帽子に移動させているわけですね。それなら納得です。
ところでこの帽子、単体でも自我がありますね。
そう、コイツはキャッピー。帽子の国のニクいやつ。マリオと常に行動をともにする腹心の相棒です。
……あれ!?もう帽子、自我あるじゃん!
なら帽子にあるのはキャッピーの自我であって、カエルがキャッピーをかぶっていて、その間マリオの身体が消えているということは…キャプチャー中…マリオの自我って…消えてる…!!!???
不安!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
まあキャッピーはお化けみたいな存在ですし、マリオと二人で一人みたいな存在です。いつもはマリオとキャッピーが力を合わせて冒険しますが、キャプチャーの際はキャッピーにマリオのアイデンティティと能力を預け、いろんな環境に対応できるってことですね。言うなれば、今作でのマリオのきわめて広いアクションの幅は、マリオの身体ではなく帽子、キャッピーの方に「本体機能」があるからこそなせる技なんです。
ところでSwitchも普段はドックと合わせてTVモードにしているとこから単品でガシャって持ち出して、いろんな場所に持っていけますね。ドックではなく液晶の方に本体機能を移すことで遊びの幅をグググっと広げているわけです。
そう、キャッピーはSwitch(本体)でありマリオはドックだったんですね!!!
なんつってな!!!!!!キャピ☆!!!!
[この記事は、盛岡デミタスさん(@M_demitas)のごった煮(仮称) Advent Calendar 2018の12/18分の記事です]